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最高裁判所第三小法廷 昭和29年(あ)1442号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を広島高等裁判所に差し戻す。

理由

(1)被告人阿藤周平本人(2)被告人稲田実本人(3)被告人松崎孝義本人(4)被告人久永隆一本人(5)被告人四名の弁護人岡林辰雄、同福田力之助、同霧生昇、同関原勇、同原田香留夫、同三浦強一、同丸茂忍(6)被告人四名の弁護人原田香留夫(7)被告人四名の弁護人正木(8)被告人四名の弁護人霧生昇の各上告趣意書(上告趣意訂正申立書を含むが昭和二九年一二月二一日以後に提出された各上告趣意補充書は所定趣意書差出最終日経過後提出のもので判断を必要としないものである)は後記のとおりである。

先ず、原判決の是認した第一審判決が認定したように、被告人四名が原審相被告人吉岡晃と判示のとおり共謀の上判示日時判示早川惣兵衛方に共同して押し入り吉岡及び被告人阿藤、稲田、松崎の手で惣兵衛及びその妻ヒサを殺害し阿藤、吉岡等の手で惣兵衛所有現金を奪取したとの事実につき、判決に重大な事実誤認がないか否かを、当裁判所は職権により本件記録(押収の証拠物を含む)について調査する。

この判決で(1)単に吉岡とは右吉岡晃を指す。各被告人については概ね姓だけを示す。(2)月日だけを示すのは概ね昭和二六年のそれ、日だけを示すのは同年一月のそれを指す。(3)阿藤警二回とは阿藤の司法警察職員に対する第二回供述調書を指す。その他これにならう。(4)検とは検察官に対する供述調書を指す。(5)証拠等の引用の場合に公判とは概ね第一審公判を指す。(6)供述等の引用の場合の鍵括弧「……」の中の文言は必ずしも原文どおりでなくその趣旨を変更しないで要旨を引用したものである。

第一  共犯の可能性と吉岡単独犯行の可能性

その一 吉岡と被告人等との共犯の可能性

昭和二六年一月二五日午後五時から二六日午後三時までの間行われた警察最初の山口県熊毛郡麻郷(おごう)村大字八海(やかい)早川惣兵衛方検証調書(二冊二八二丁)、早川惣兵衛、同ヒサ各死体解剖鑑定書(二冊二五三丁、二六四丁)、検証現場にあった押収の薪割用長斧(証四)切れ紐(証六)、細引(証七)等によると、二四日夜同家で何者かが惣兵衛とヒサを殺害し、また金品を捜索奪取し、なお犯行が早く発覚しないようにするため、恰かも二人が夫婦喧嘩をして灰をまきちらしヒサは惣兵衛を殺した上鴨居で首吊自殺をした如く擬装工作をし戸締をして立ち去ったように推測することができる。そして惣兵衛は頭部、顔面に七ケ所、胸部に一ケ所の重傷(頭部に頭骨骨折、陥没を来たす割創四個、顔面に下頚骨切断及び深さ口腔に達する等の割創三個、胸部に胸骨骨折を来たす創傷一個)を受けこれによって死亡したのに、ヒサには頚部に索溝があるが、ヒサは「索溝のできる以前に第三者より頚部を索状以外の何物かによって搾扼されて死に至らしめられたもの」と推測される。また、惣兵衛の敷布団下の畳が同人が動かなくなってから上げられたようであることは、右検証調書における惣兵衛の枕許より電灯点滅用紐一本が垂れ下り同人の死体の畳の裏側に喰い込んでいるとの記載などから推測できる。(被害発見当初早川方は内部から戸締がなされていたことは公判証人加藤スミ子、清力用蔵、中山宇一各調書一冊六六丁、五〇丁、七六丁などによって認められる。)

一  右被害の客観的状況において惣兵衛の傷の多いことと一審判決の説示したように殺害が同時であると認められるのに殺害の方法は違っているところから、惣兵衛に対する八回強打とヒサの頚部搾扼は二人以上の人によってなされた可能性がある。

二  惣兵衛、ヒサが被害後少くとも動かなくなってから、灰撒きや畳上げ或は重く扱いにくいと思われるヒサを鴨居に吊るす擬装工作をし、かつ戸締をすることも、二人以上でなされた可能性がある。

三  単独犯行なら、犯人は前記被害状況に見られるような擬装工作などのために、余り多くの労力を費やし余り長く現場に居残らないのが通常ではないかと思われる。

四  被告人等が、吉岡と早川方での犯行を共謀し共同実行することが絶対にない間柄であるとは断定できない状況であったことは、一、二審判決挙示の証拠によって認めることができる。すなわち、一審判決のいう被告人四名と吉岡が仲よく毎日の様に集まり雑談や遊びにふけり、金があれば酒を買って皆で飲み或は近くの娘のいる家に遊びに行く等行動を共にしていた状況や、一月一五日頃金につまっていた五名はどこかよいところに物とりに入ることを考え始め、同月一九日頃橋柳旅館に五名が集まった際右の話が出て押入先を物色し早川惣兵衛方がよいということに大体話が落ちついたような状況(五回公判吉岡供述二冊四六〇丁、吉岡警六回三冊六〇四丁、阿藤警四回四冊八〇七丁、稲田警三回四冊八七〇丁、松崎警三回四冊八三七丁、久永警五回五冊九一七丁、三回公判証人樋口豊証言二冊三七一丁等)や、なお、阿藤に関しては、吉岡が一月一五日午後一〇時頃麻郷村農業協同組合前路上で竹本定人所有自転車一台を窃取し、これに吉岡と阿藤が二人乗りして柳井の遊廓に登楼し阿藤は稲田と偽名し吉岡は右自転車を担保に入れたこと(阿藤警一回四冊七八一丁、五回公判吉岡供述二冊四六二丁、吉岡警五回三冊六〇〇丁、吉岡検六回三冊六五二丁)や、吉岡の昭和二五年中の三回の窃盗の賍品の処分に阿藤が関係していること(阿藤二月二二日附検四冊七三三丁)などについては証拠資料は存するのである。

その二 吉岡単独犯行の可能性

一  吉岡は二四日宵の口には単独行動をとった

早川ヒサの死体鑑定書(二冊二六九丁)はヒサは食後一時間ないし二時間を経過した頃殺害されたものと推定するという。だから一月二四日のヒサの最終食事時刻が判れば殺害時刻を推知することができるのであるが、当日のヒサの最終食事時刻についての証拠資料は記録上存しない。記録によれば被告人四名が二四日夜八海橋に集まり早川方に行ったという多くの供述があるとともに、八海橋にも早川方にも行かなかったという多くの供述もある。そして、被告人四名の当夜の行動の時刻についての供述としては、三回公判証人曽村民三調言(二冊三八二丁)、公判証人中野良子調書(一冊一六一丁)、巡査山崎博の上申書(二冊四〇六丁)、同人の公判証人証書(一冊一二二丁)、被告人の家族等の供述があるが、その時刻についての供述が真実であることの物的証拠はなく、必ずしも正確とは考えられない。

吉岡は同日夕方までに麻郷村新庄藤一方で焼酎約四合を飲んだ上、いくらか焼酎の入った同家の三合瓶一本(証三)を持って、少し酔って、夕方同家を出た。(新庄藤一検一冊二二二丁によれば、同人が午後五時頃帰宅すると吉岡が来ており焼酎二合位を飲み自分が帰ってからも四合位を二人で飲んで帰ったと供述するが、吉岡の去った時刻については供述していない。)

しかし、被告人四名及び吉岡のいずれの供述によっても、吉岡は二四日宵の口以後五名が同夜八海橋に集まったという時刻まで田布路木の中野末広方にも行かず被告人四名中の誰にも会っていないことになっている。次項に列挙する八海橋集合と犯行との時刻についての吉岡供述によると、吉岡は新庄方を出て峠附近の草原に伏し、その辺をうろつき或は阿藤方に寄り八海部落を歩き回ったということになっている。だから同日宵の口以後も吉岡は宵の口までのように単独行動をとり単独犯行をしたのではないかとの疑念も起り得る。そして、或は吉岡は同夜早い時刻に単独犯行をした後何処かに隠れ或は人目を避けつつ二五日午前〇時四〇分頃平生町中本タクシー店に現われたのかもしれないとの疑念も起り得る。(中本イチ検一冊二〇八丁、岡田保険一冊二〇六丁)

二  吉岡供述における時刻のずれ

二四日夜五人が八海橋に集まり早川方に行って殺害及び金員奪取をしたという時刻については、吉岡は捜査の終頃の段階で時刻を前よりも少しずらして供述し、公判では時刻が遅かったように供述すること次のとおりである。これは吉岡が或は同日夕方早い時刻に単独犯行をしながら、被告人四名のアリバイの立たないように、他の者の供述に合わせて偽って犯行時刻を遅かったように供述したのかも知れないとの疑念も起り得るのである。

今左にこの点についての供述の要旨を示す。(ここでは時刻はすべて一月二四日の午後を指す。)

(1) 一月二六日附吉岡警一回三冊五四七丁「八時頃新庄方を出て峠附近の草原に伏せ、平生町に向い、また自宅に戻り、地蔵尊側の石に腰を下ろし早川方に行く」(単独犯供述)

(2) 二八日附稲田警一回四冊八五〇丁「一〇時前頃八海橋に行く」

二八日附吉岡警四回三冊五六四丁「新庄方で六時半頃飲み終り、峠で一休みし、八海橋に出て六人で八時半頃か九時頃早川方に行く」(六人犯行供述)

(3) 二九日附松崎警一回四冊八二二丁「一〇時一〇分か二〇分頃八海橋に着き相談の後早川方に行く」

(4) 三〇日附久永警二回四冊八八七丁「一〇時過中野方を出て、家に寄り、阿藤と八海橋に行く」

三〇日附阿藤警二回四冊七九一丁「一一時頃八海橋に集合し早川方に行く」

三〇日附阿藤警三回四冊七九九丁「一〇時頃家に帰り風呂、夕食をすませ打合せの一一時の時間頃八海橋に行く」

(5) 三一日附稲田警二回四冊八五九丁「九時四〇分か四五分頃八海橋に行く」

三一日附久永警三回五冊八九七丁「一〇時二〇分過中野を出て、阿藤方に寄り八海橋に行く」

(6) 二月一日附松崎警二回四冊八三〇丁「一〇時八海橋に集合することの伝言に従い集まり相談の後早川方に行く」

一日附吉岡警五回三冊五八一丁「六時半頃か七時頃新庄を出て阿藤方に行き阿藤方を出て八海部落を歩き回り、八海橋を渡り九時過頃四人に会い、早川方状況などを探る」

(7) 二日附松崎警三回四冊八三九丁「九時一〇分前中野方を出て久永、福屋、稲田方に、更に阿藤方に寄り、帰宅後八海橋に行き一〇分位後五人集まり段取りをきめ早川方に行く」

二日附稲田警三回四冊八七三丁「九時四五分頃八海橋に行く」

二日附吉岡警六回三冊六〇八丁、六二一丁「八海橋を渡り、九時半頃四人に会い相談の後早川方に行く、金の分配が済んでから阿藤が「警察で調べられたときは云々」といった時刻は一一時半前頃と思う」

(8) 三日附吉岡検一回三冊六二四丁「九時半か一〇時頃八海橋に行き相談の後早川方に行く」

三日附阿藤警四回四冊八〇九丁「当日、今晩一〇時頃八海橋に集まろうと申し、自分はその晩夕食をすまして直ぐ八海橋に行った」

(9) 一四日附吉岡検四回三冊六三八丁、六四二丁「一〇時過頃新庄方で貰った瓶を持って八海橋に行くと四人に会い早川方戸外に行き、悪い事をしたのは一一時前後ではないかと思う」

(10) 六月八日公判検証吉岡供述一冊三〇丁「一〇時頃八海橋に行く」

(11) 昭和二七年二月一一日八回公判吉岡供述四冊七六三丁「一一時頃四人と共に忍び込み殺害した」

(12) 同二八年七月二二日控訴公判吉岡供述一三四五丁「阿藤は二四日夜一〇時か一一時頃来ればよいといった」

三 吉岡が単独犯行をする動機があるとみることも可能である

一審判決が吉岡のみに対する追起訴状に基いて認定したところの、吉岡が単独で昭和二五年中平生町、麻郷村で三回の窃盗、また同二六年一月一五日麻郷村字助政農業協同組合前路上で竹本定人所有自転車一台の窃盗をした事実は、同判決挙示の証拠によって認めることができる。そして一月一五日吉岡が路上で粘土車の枠を外す悪戯をしたため、阿藤、稲田等が吉岡のため地家正夫らに酒を買って謝まったので、吉岡が「謝まり酒」の代金を返済すべく迫られており、二二日三木バス停留所でもそのことを督促され、吉岡が当時特に苦慮していた事情を認める証拠資料は存するのであって(吉岡警一回三冊五四三丁、検七回三冊六五五丁、公判証人岩井武雄調書中の吉岡供述一冊一四六丁、阿藤警一回四冊七八一丁、七八九丁、三回公判証人樋口豊証言二冊三八〇丁、控訴公判吉岡供述一三四七丁)、吉岡が単独で本件犯行をするについての動機もあるとみることも可能なのである。

四 犯行後の行動

犯行後吉岡だけが柳井遊廓へ行っている。そして吉岡と被告人四名の左記供述を検討してみると、犯行後右五名は八海橋附近で別れたが、その時吉岡だけが自分は柳井に行くといってそちらに向い、他の四人はそれを承認しそれぞれ自宅に帰ったことになっている。

この点についての警察供述は次のとおりである。

(1) 吉岡警五回三冊五九三丁「金の分配が済んでから……自分は稲田に「俺は柳井の方に出て見よう」といって稲田と別れた」

(2) 吉岡検三回三冊六三六丁「稲田に対し「柳井に行く」というと、稲田は「柳井の兄(吉岡の)に二四日は昼から兄の家におったようにいうて貰うよう頼んでおけ」といった」

(3) 稲田警一回四冊八五三丁「自分はその二千円を貰って吉岡と共に自宅に帰る様にさそったが、吉岡は「柳井に行く」といって別れ、他の者もそれぞれ自宅に帰って行った」

(4) 稲田警二回四冊八六五丁「吉岡に「帰ろう」と誘ったら、「俺は今から柳井に行く」というたので自分だけ一人先に別れた」

(5) 稲田警三回四冊八七六丁「自分は吉岡に「帰らんか」と誘ったら、「俺は今夜柳井に行く」といって帰らんので……」

(6) 久永警三回五冊九〇八丁「自分達が「いのう」といっても動かず吉岡が「柳井が面白いぞ」というような事を一寸いっておったので、何処かへ行くのだと思った」

公判供述としては次のものがある。

(7) 公判早川方検証中吉岡供述一冊三八丁「別れる時自分は「柳井の兄の処へ行く」といったところ、稲田が自分に「お前はバレても今日昼頃から柳井の兄の処にいた様にいえ」といった」

(8) 控訴公判吉岡供述一三〇八丁「皆と別れるとき自分は「柳井に行く」といったら、「柳井の兄によういうとけ」といった」

(9) 控訴公判吉岡供述一三五八丁「自分が「柳井へ行こう」といったら、皆んなが「出たらいかぬぞ」といった……自分が「柳井へ行くぞ」といった、稲田は「行かぬ方がよいが、どうしても柳井へ行くのなら姉さん(柳井にいる自分の姉のこと)に昼からいたといって貰う様に頼んで置け」といった」吉岡の供述によると、阿藤はしばしば警察に捕まった場合の細かい注意等を与えたことになっている。(五回公判二冊四七三丁、八回公判四冊七七三丁、控訴公判一三三八丁、警六回三冊六一九丁、六二一丁、各供述、なお、松崎警三回四冊八四三丁、久永警五回五冊九一九丁)

しかるに犯行後の重大時期に吉岡だけが(しかも、後記のように血のついた服装のままで)柳井遊廓に行くのを、阿藤ら四人が何もいわず黙認するのは、犯罪が直ぐ発覚するような危険な行動を吉岡に許すことであって、阿藤のその前の態度と矛盾しいかにも不合理である。

以上のような状況から、本件犯行及び擬装工作は吉岡単独の犯行及び擬装工作であることの可能性もあるといい得る。

その三 現場の灰に残った足紋

一審判決が証拠に引用した一月二五日から二六日にかけての警察最初の検証調書添付写真(二冊二八七丁、三〇七丁写真三二)をみると、惣兵衛の死体の横たわる納戸室の灰に人の足の一部が印せられた痕があり、これに足紋が現われているようである。若しこの紋跡をその写真原版(ネガチフ)を拡大して吉岡の足紋と比較することによりこれが吉岡のものでないこと、進んで被告人四名中の誰かのものであることが判れば、共同犯行か単独犯行かの判断に一資料を加えることになろうが、この点の取調がされていない。

第二 被告人等の警察供述の任意性と信用性

本件記録を調べてみても、司法警察職員に対する被告人等の警察調書の内容たる供述が拷問、強制、欺罔等により任意性を欠くようなものとは認められないとする趣旨の原判決の判示は不当ということはできない。尤もこのことはこれらの供述の信用性の有無とは別問題である。

その一 供述の甚しいくいちがい

数名の被疑者、被告人の間でその供述がくいちがうことはあり得ることであり、裁判所はこれを取捨選択して事実判断をすべきものであるのみならず、本件では警察の捜査前予め被告人間に警察で取調を受けたときはでたらめ(テレンポレン)をいい供述が合わないようにしようとの打合せをした旨の吉岡の供述もあることはある(公判検証一冊三八丁、五回公判二冊四七四丁、控訴公判一三四四丁、一三五一丁、警四回三冊五六七丁、警六回三冊六一九丁等)。けれども、かような打合せをしたという供述を含む諸供述そのものが措信できるか否かが本件の問題であって、これを判断するについては供述の甚しいくいちがいの点もまた看過することができない。

今、一審判決挙示の吉岡及び被告人四名の供述調書を見ても、その供述内容は多くの点においてまちまちであり、いずれが真実であるか容易に理解できないものがある。その主要なものを示せば次のとおりである。

一  八海橋集合と謀議

(1) 先ず、八海橋に集まるべきことを何時謀議したかの点を見よう。吉岡六回は「一月一五日午後七時過自分等五人が麻郷村助政の娘の処に行く途中、八海橋を渡った頃、阿藤が「エートコがあったら金を取りに行こう」といった……一九日晩橋柳旅館で五人が集まったとき、「早川にするか」と一おう話が決まった……二三日晩阿藤方で五人が「明晩九時か一〇時頃やろう、その頃に八海橋に行こう」と決めた」と供述し、稲田一、二回は「一月一五日阿藤方で五人が集まった際吉岡が阿藤に「早川方で一回やろうではないか」といい、その後はかような話は出合ってもなかったが、二四日午後九時三〇分頃松崎が来て「今から八海橋まで出て呉れ」といった」、久永三回は「一月一五日阿藤方で吉岡が四人に対し「二四日頃やろう、八海橋に集まろう」といった」と供述し、稲田三回は「一九日橋柳旅館で阿藤が「早川を一回やろう」という話を出し、皆の者も賛成した、二三日阿藤方で同人は「明日の晩早川に行こう」といい皆の者が行くことに定めた……二四日午後九時三〇分頃松崎が自分方に来て「今から早川に行くから一本松の処に来い」といい、自分は九時四五分頃行った」と供述し、松崎一回は「二四日午前一一時頃久永方で阿藤は「今晩良い儲けがあるから一〇時頃八海橋へ来て呉れ」といった」、阿藤二回は「二四日当日かねて久永方で五人が金を盗むことを話し合った、午後一一時頃八海橋に集まった際早川方にはいって金を盗むことになった」、同三回は「二四日午後四時過仕事を終り久永方で四人が一儲けしようではないか、今夜一一時頃八海橋に集まるということにした」、同四回は「二二日(二三日か)自分は三人に「明晩一〇時頃八海橋に集まれ、早川方にはいろう」といった」と供述する。

(2) 八海橋辺での共謀内容を見よう。吉岡六回は「自分は「俺が先に入って開けてやるからついて来いよ」といい、阿藤は「久永はロープを探す、松崎は人が来たら口笛を吹く……稲田は婆さんを叩いて首を締める、俺が薪割を探す……爺さんは吉岡に叩かせる、そして自分、稲田、松崎、久永の順で一回ずつ殴ろう、婆さんは叩かずに首を締めよう、その後で夫婦喧嘩の様に見せかけよう」といい一同賛成し、この時殺すということが決まった」と供述し、松崎三回は「阿藤が「段取りをきめる、吉岡は戸を開け、俺と稲田も直ぐ入る、久永は縄を探しておけ、松崎は見張りせ、若し人が来たら指で口笛吹け、吉岡は入って感付いたら縛れ、何ぢゃったらばらしてもええ、道具が何処にあるかよう見ておけ、見付かったら何処でも殴れ」といった」と供述し、稲田三回は「午後九時四五分頃八海橋近くの一本松の処に行くと阿藤は自分等四人に対し「今から早川に行くから手配しよう」といい、自分(稲田)と阿藤、吉岡の三人は主人を斧か何かでやっつける、松崎、久永はお婆さんを締めるという様に役割を定めた」と供述する。しかし、松崎一回は「吉岡が「盗みに入ろう」阿藤が「お前らは見張せえ」といった」、久永二回は「吉岡が「早川の家に今夜入ろう」といい、自分は「俺と松崎は見張するぞ」といった」、同三回は「吉岡は自分、稲田、松崎に「自分は先に入り戸を開ける、お前らは入ってもよいし見張をしてもええが、ついて来ることはついて来い、中のことは自分に任せ」といった」と供述する。

二 早川方への侵入口

阿藤二回は「稲田と思うが母屋と部屋の中間の硝子戸を開け、稲田、自分、久永、松崎が入り、裏側にいた吉岡も同じ所から入った」、同三回は「吉岡と稲田が侵入口を探し、稲田が横手の板戸を開け、自分達を呼んだので自分、松崎、久永が其処へ行った」、同四回では「吉岡と二人で北側に回り、吉岡はどこからか先に入って北側の戸を開け、自分はそこからはいって前側の硝子戸を開けて稲田、久永、松崎を入れた」と供述し、稲田一回、二回は「吉岡、阿藤が裏手に回って約一〇分か一五分で阿藤が母屋と部屋の中間の硝子を開けた」、松崎一回は「吉岡、阿藤、稲田が裏の方の何処からか入った、自分と久永は風呂の傍にいた」、同三回は「吉岡と思うが母屋と部屋の間の硝子戸を開け、自分と久永がそこから入った」、久永五回は「吉岡が正面北側出入口の硝子障子を開け、自分、稲田、松崎、阿藤が入った」と供述する。そして吉岡六回は「阿藤が部屋の横の中連の所で硝子障子を動かしていた、自分は裏手に回り、板戸の下の壁につけた板をはぐり、床の下から入った」旨供述する。

三 殺害行為

吉岡六回は「惣兵衛は薪割で阿藤、稲田、自分、松崎の順序で殴った」と供述するが、ヒサについては、同調書前段では「稲田が婆さんを叩いて首を締めることに打合わせた」旨、後段では「前もって話し合わせた通り自分が婆さんの首を締め、次で阿藤、稲田の順に首を締めた」と供述し、阿藤二回は「斧を自分が見付け吉岡が出刃をくれたので稲田に渡し、斧は吉岡に渡した、吉岡は斧で爺さんを叩いた」と供述し、同三回は「吉岡が爺さんを盛んに殴り始めた、婆さんは吉岡と稲田がねじ伏せた、松崎が紐をもってきて吉岡がそれで首を締めた」、同四回は「爺さんは吉岡、自分、稲田、久永、松崎の順に殴り、婆さんは吉岡が首を締め、松崎が紐、久永が細引を探してきて皆で吊った」旨供述する。稲田一回前段は「吉岡が婆さんの首を締めそれから阿藤が爺さんを薪割で殴った」、同後段は「惣兵衛さんは阿藤と吉岡の二人が薪割で殴り殺したことは知っている、婆さんはどうして殺したのか自分は知らない」と供述し、稲田二回は「奥の方で吉岡が何か振り上げて下ろしたと思ったと同時にポカンと音が聞えた、吉岡が婆さんの後から馬乗りの中腰で首を締めた」、同三回は「吉岡、阿藤が次々に斧を振り上げて打ち下した、自分も打ち下した」と供述する。松崎一回は「自分と久永は外で見張をした」、同二回は「自分、久永、稲田は外で見張をしていたが、呼ばれて中に入ると、惣兵衛は血もぐれになって横たわっていた、死んだようになっている婆さんを皆で吊り下げた」、同三回は「婆さんも爺さんも倒れていたが、婆さんが動いたから久永がロープを持って来た、阿藤が婆さんの顔を殴った」、久永二回は「吉岡が「アツ起きた」とどなり……炊事場辺にあった薪割を持って納戸に走って行き上向に寝ている爺さんの頭へ打ち込んだ、一回位ではないかと思う、吉岡が婆さんを後から両腕や紐で咽喉をしめつけた」、同三回は「吉岡が先に入った、中から変な音がした、吉岡が右腕を巻きつけて婆さんの首を締めた、爺さんは動く気配がなかった」、同五回は「吉岡が爺さんを切るか叩くかしたらしく、中から爺さんの悲鳴が聞えた、吉岡が婆さんに飛びかかり首を締めた」旨供述する。

四 奪取金額とその分配

吉岡六回は「自分は千円札八枚、百円札二〇枚位、十円札五〇枚位、五円、一円取り合わせ一〇〇円余(計約一万六〇〇円)を取り、稲田、松崎、久永に各一、〇〇〇円ずつ分配し、阿藤も稲田、松崎、久永に二、〇〇〇円(或は三、〇〇〇円)ずつ分配した」旨供述する。阿藤二回は「久永から二、〇〇〇円もらった」、同三回は「吉岡と稲田が盗金を出し、自分が各人に千円札一枚、百円札二枚、十円札四、五枚ずつ分け、自分は二、六〇〇円位とった」、同四回は「四人に大体千六、七百円位ずつ渡し自分は二、五〇〇円とった」と供述する。稲田一回は「金は吉岡と阿藤から一、〇〇〇円ずつ二、〇〇〇円もらった」、同二回と三回では「吉岡から千円札一枚、阿藤から百円札で一、〇〇〇円もらった」と供述し、松崎一回は「阿藤から二、〇〇〇円(千円札二枚)、吉岡から五〇〇円(百円五枚)もらった」、同二回は「阿藤から、一、〇〇〇円(千円札一枚)もらった」、同三回は「阿藤から一、〇〇〇円(千円札一枚)、吉岡から百円札五枚と十円札六、七枚もらった」と供述し、久永二回は「吉岡から五〇〇円(百円札五枚)もらった、松崎も吉岡から五〇〇円もらった、吉岡が阿藤に二、〇〇〇円(千円札二枚)渡したので、自分は阿藤から千円札一枚借りた」、同三回は「吉岡から自分と松崎が五〇〇円(百円札五枚)ずつもらい、吉岡が阿藤にいくらか渡したので阿藤から千円札一枚借りた」、同五回は「吉岡から五〇〇円、阿藤から一、〇〇〇円もらった、吉岡は松崎に五〇〇円、稲田に五〇〇円か、一、〇〇〇円、阿藤に二、〇〇〇円渡した、阿藤は松崎に五〇〇円、稲田に五〇〇円か一、〇〇〇円渡した」と供述し、容易に金額を捕捉し難い。

以上のように、同一被告人の数回にわたる供述相互間のくいちがいは甚しく、同一調書中でも前後くいちがっているものがあり、さらに、他の被告人の供述と対比すれば、くいちがいは全く甚しい。

その二 供述の不自然な点

一  八海橋での共謀内容

一審判決は、一月二四日当夜早川方に侵入兇行するに先立ち、吉岡と被告人四名とは八海橋に集合し、阿藤から「家の勝手をよく知っている吉岡は先に侵入して戸を開けるように、自分は稲田と侵入し長斧を探す、松崎は見張し、久永はロープを探すように」と各人の分担を指図し、その外終った後の始末や、発覚したときの対策等について話し合い、場合によっては老人夫婦を殺害することを相互に了解し、以て被告人五名は早川惣兵衛方から金品を奪い取ることの共謀を遂げた旨を認定した。

しかし、早川方に長斧やロープがあることを八海橋共謀当時右五名中の誰かが知っていたこと、またどうして知ったかは記録上明らかではない。従って阿藤が八海橋で「自分は長斧を探し久永はロープを探す」ようにいったという点は不自然で疑念の生ずるところである。

八海橋で誰が長斧を探し誰がロープを探すという点まで共謀をしたとの供述は、吉岡及び被告人の警察、検察官に対する供述中ただ一審判決挙示の吉岡警六回三冊六〇八丁に判示のような供述と吉岡検一回三冊六二五丁に「縄は久永が持って来ることにし」たとの供述と吉岡の公判供述に存するに止まる。(控訴公判一三四三丁)

なお、八海橋共謀の際、阿藤が「爺さんは吉岡に先に叩かせる、そして自分が叩きその後稲田、松崎、久永の順で一回ずつ殴ろう」というような殴打順まで定めたということは、真実であろうか。一審判決の引用した吉岡警六回三冊六〇八丁にはかような供述があるが、夜間数名が侵入して二人を殺すような場合には彼我の態勢次第で殺害者側は臨機応変の挙動にいでなければならないかも知れないから、予め殴打順を打ち合わせておくようなことは無意味なことで、しない方が自然であろうと思われる。

二  数人が惣兵衛を代る代る長斧で順次強打したということ

一審判決は「阿藤は先ず右早川家にあった長斧で、六畳の納戸に寝ていた早川惣兵衛の頭部を一回強打し、同時に吉岡は、驚いて起き上ったヒサに飛びかかり、手で同女の口を塞ぎ首を締め、次いで稲田、吉岡、松崎がかわるがわる右長斧で惣兵衛の頭部及び顔面等を殴りつけ、一方阿藤、稲田が更に手でヒサの首を締めつけた」旨認定した。

同判決挙示の証拠その他の証拠には吉岡と被告人四名が金品奪取の目的から早川方に侵入し犯行をしたことの証拠資料はあるが、それ以外の怨恨等の感情をもっていたことの証拠資料はない。とすれば、吉岡と被告人阿藤、稲田、松崎が金品強取だけの目的から代る代る長斧で強打するというようなことは、余り有り得ない不自然な殺害方法のように思われる。また、惣兵衛は頭部、顔面に七ケ所の出血を伴う重傷を受けている(同人死体解剖鑑定書)のであるから、左様なことをしたのなら、右被告人三名の身体や着衣には、も少しその血がついたのではなかろうかと思われるが、被告人等の身体と着衣にそのような人血痕の存することの物的証拠の乏しいことは後に(第三その三で)述べるとおりである。要するに、「爪、着衣の血痕検査書」(二冊四〇〇丁)によれば、被告人等の爪、押収の各着衣に存する血痕は、ルミノール及びベンチヂン試験法をしても、人獣血の区別もつかず、血液型も判定できないほど微量であり、また一月二四日頃附着したものか、久しい以前に附着したものかも明らかでないのである。

第三 本件犯罪の物的証拠

その一 吉岡に特段の物的証拠

吉岡が本件犯行の犯人であって人違いはないということについての物的証拠としては次のものがある。

(1) 被害が最初発見された一月二五日朝早川方北裏口外側に焼酎の臭いのするサイダー瓶(二合瓶)一本(証二)が発見され、それに指紋が認められた(早川方一月二五日警検証二冊二八八丁)。その指紋の一つは吉岡の左手中指の指紋と一致する。(二月五日附現場指紋対照書二冊四八三丁)

(2) 右警察最初の検証の際被害者の寝室の箪笥内に発見された番号一一一三二二二号の新品同様の一〇円紙幣七枚(証二三)と同番号の新品同様の一〇円紙幣を、吉岡は二五日午前〇時四〇分頃平生町タクシー業中本の妻イチに、柳井町までの自転車賃の一部として五枚(証一四)を支払い(中本イチ検一冊二〇八丁、岡田保険一冊二〇六丁)、吉岡は寄道せずに柳井町寿楼に登楼しそこでやはり同番号の一〇円紙幣一〇枚(証一七)をも支払った。(仲居八木初江検一冊二一〇丁、接客婦山崎陽子検一冊二一二丁、公判証人三好等調書一冊一〇二丁、同人の捜査報告一冊二四九丁)

(3) 寿楼でも吉岡の着ていたジャンパー(証三二)には(惣兵衛の血液型と同じ)B型の血痕が附着し蜘蛛の巣がついていた。吉岡の右眉部、右耳翼、右手拇、示、中環、小各指爪、左手各指爪、右足ぼ趾爪、左足ぼ趾にも血痕が附着していた。が、吉岡の血液型はO型である。(藤田千里、鑑識課長の物品検査回答二冊四〇三丁、藤田千里鑑定書二冊二七五丁)

(4) 吉岡は犯行当夜曲つた金棒バールを持っていたが同夜早川方南の堆肥中に投げ込んだと検察官にも公判検証の際にも自供した(吉岡検八回三冊六六三丁、公判検証一冊三二丁)。果してそのバールは一審公判の途中一一月一八日偶然発見せられ押収せられた。(警実況見分書五冊九三五丁、一〇回公判証人中山宇一証言五冊八四三丁)

このことはバールが早川方構内に棄てられてあることを吉岡が知っていたこと、すなわち吉岡が早川方現場に行ったことの証拠である。

しかし、バールと早川方東表ガラス窓枠に金物でこねた傷痕とがある(公判検証一冊四二丁)ということは、たとえそれがバールの跡だとしても誰かが右バールでこの部分をこじ開けたことの証拠にはなるが、そのもの自体は被告人中の一人または数人がこじ開けたことの物的証拠にもならず、吉岡がこじ開けたこの部分から被告人らが侵入したことの物的証拠にもならない。

(5)早川方台所と炊事場の境の板戸に刃物の先で突いたような九つの傷穴があることを、六月八日一審公判早川方検証の際被告人四名とともに立会った吉岡が始めて自ら指摘して供述した。(同検証一冊三二丁、四二丁)

これまた吉岡が早川方屋内に来て板戸の細部をまで吉岡が知っていたことの証拠である。

その二 吉岡及び松崎、稲田、阿藤に共通の物的証拠

二月二日附吉岡、稲田及び二月三日附阿藤の各警察供述では、いずれも犯行後八海橋の上から阿藤の言葉に従い、阿藤、吉岡、松崎等が八海川に手袋、足袋、靴下等を棄てたと供述した。(二月二日附吉岡警六回三冊六一八丁、同日附松崎警三回四冊八四三丁、同日附稲田警三回四冊八七五丁、二月三日附阿藤警四回四冊八一二丁)(久永警察供述には八海橋から物が投げ棄てられたことの供述はない。)

これらの供述の後、二月五日警察職員は八海川下流を検証捜索した結果、八海橋下流八海川の中から日本手拭一本(証二六ノ一)、西洋手拭二本(証二六ノ二)、雑巾二枚(証二七)、三木食料品店から早川宛金銭請求書一枚(証二八)を、

その箇所から少し下流で

白木綿手袋片手分一つずつ(証一一、証一二)がそれぞれ離れて存するのを発見し、すべて差し押さえた。

右日本手拭一本の中に右西洋手拭二本、雑巾二枚、請求書が包まれるような具合になって発見されたというのである。

手拭、雑巾は早川惣兵衛方で使っていたものであるとの上申書が出た。(二月五日附警検証調書三冊五三一丁、捜索差押調書三冊五〇九丁、中山ツマ上申書三冊五三六丁)

公判証人三好等は「吉岡の供述に基き(手袋を八海橋の上から川中に捨てたという供述)松本部長刑事に検証をやらせ川中より手袋を発見した。それは八海橋から大分遠く流されていた」旨供述する。(同三好等調書一冊一〇八丁)

これらによると、警察職員が二月二日と三日に吉岡、松崎、稲田、阿藤の右供述を聴きその調書を作成してから、二月五日八海川を検証捜索したところ、果して右物件を発見したという関係であるから、右押収物は吉岡のみならず被告人松崎、稲田、阿藤の供述に合う物的証拠であるということができる。(尤も、右手袋は吉岡のものか、被告人中の誰かのものか、第三者のものか、また、手拭も吉岡だけが使ったものか、被告人中の誰かが使ったものかはこれらの物自体からは判らない。)

しかし、右の証拠だけでは、二月二日吉岡、松崎、稲田のうち誰が警察で最初に右の供述をしたかの点、また、手拭、雑巾が棄てられた情況や、日本手拭に西洋手拭と雑巾が包まれるような具合になっていた訳は判らない。一、二審ではこれら供述の経過顛末等について更に具体的に充分の取調がなされるべきであったのに、それがされていない。

その三 各被告人四名についての物的証拠

本件犯罪の物的証拠は一審判決挙示の検証調書、両死体解剖鑑定書、長斧、着衣、紙幣その他の押収物等多数存するが、しかし、犯人は吉岡のほか被告人四名であって、余人ではないという、犯罪事実と被告人との結びつきを、供述以外から推測せしめる物的証拠としては

1  右八海川から発見押収された手袋、手拭、雑巾、早川宛金銭請求書

これについては前項その二において説示したとおりであって、前記警察供述の経過顛末等について

更に具体的に充分の取調がされるべきであったのに、それがされていない。

2  被告人四名の「爪、着衣の血痕検査書」(二冊四〇〇丁)並びにその検査目的物となった被告人等のズボン、ゆかた

3  早川広美より押収の一〇円紙幣七枚、阿藤の内妻木下ムツ子より押収の一〇円紙幣一枚及び久永サイ子より押収の一〇円紙幣一枚

がある。2、3について以下に述べる。

一  爪、着衣の血痕検査書

昭和二六年二月五日熊毛総監発照会に対する同月二一日附国家地方警察山口県本部刑事部検査者警察技官上野敏典、鑑識課長の物品検査回答書と題する書面(「爪、着衣の血痕検査書」と略称する)(二冊四〇〇丁)の趣旨は

(一) ルミノール及びベンチヂン試験法によって血痕検査をしたところ、

押収にかかる阿藤のズボン(証二四)、同ゆかた(証二五)、久永の国防色ズボン(証一八)、松崎のカーキ色ズボン(証一九)、同黒色ズボン(証二〇)

に血痕附着箇所を認めたがその血液型は微量のため判定出来ない。

右血痕は検査物品少量のため人、獣血の判定は出来ない。

(二) 検査物である被疑者四名の手及び足の爪を右試験法によって検査したところ、被疑者稲田、阿藤、松崎の三名の手及び足の爪には血痕の附着を認めたが血液型は微量のため判定できない。(久永隆一の手足の爪に血痕の附着を認めた旨の記載はない。)

というにある。

なお、五回公判で被告人五名は裁判長より「被告人等は爪の検査を受けたか」と問われ、「受けました。爪を切り取られました。」旨答えている。(二冊四五九丁)

当裁判所は、この検査書には左の欠点があると思料する。

1  血痕の附着を認めたというのは稲田、阿藤、松崎の手及び足の爪全部であるのか、誰の右手または左手の第何指の爪というように(少くとも、右手の指の爪というように)いずれの部分であるのか、区別して明示されていない。

これは吉岡についての鑑定書(二冊二七五丁)、物品検査回答書(二冊四〇三丁)に

「血痕附着箇所……右手拇、示、中環、小各指爪、左手各指爪、右足ぼ趾爪、左足のぼ趾」

と記載されているのにくらべ甚だ不正確である。

2  身体、着衣の血は古いものか比較的新しいものか、大体何時頃附着したものか示されていない。

されば、裁判所が一月二四日頃稲田、阿藤または松崎のどの爪かに人血がついたであろうと認めるためには、右爪、着衣血痕検査書は、右検査の方法と結果についての検査者の今少しく正確な証言若くは報告等によって右検査結果が明確にされないままでは、罪証としての証明力は甚だ乏しいものというのほかない。着衣の血痕についても同様である。

二 押収の一〇円紙幣

(一)(1) 兇行の翌日一月二五日午後五時から二六日午後三時まで行われた早川方最初の警察検証の際、同家納戸室箪笥の下小抽斗より番号一一一三二二二の新品同様の一〇円札七枚が発見されたが押収されず(警察検証二冊二八八丁)、惣兵衛の長男早川広美が麻郷村へ帰って二月二日提出し、領置された。(早川広美警三冊五二四丁)(証二三)

(2) 二五日午前〇時四〇分頃、吉岡が平生町から乗って柳井町まで行った自動車の代金として、吉岡から四五〇円の支払を妻の手により受け取ったタクシー業中本貫一から、翌二六日、番号一一一三二二二の新品同様の一〇円紙幣五枚が領置された。(中本イチ検一冊二〇八丁、岡田保検一冊二〇六丁、領置同二四六丁)(証一四)

(3) 二五日午前一時頃吉岡が登楼した柳井町石原区寿楼こと長滝キミ子より、二七日警察職員三好等は番号一一一三二二二号の新品同様の一〇円紙幣一〇枚を領置した。捜査報告によれば、これは新品で同楼金庫から発見されたもので、吉岡から受け取った金の中の八〇円と仲居八木初江が受け取った二〇円だという。(捜査報告一冊二四九丁、領置調書一冊二四九丁)(証一七)

(4) 二九日午後三時頃阿藤とともに三田尻駅に来たその内妻木下ムツ子は同日、番号一一一三二二二の新品同様の一〇円紙幣一枚を警察に提出した。(木下ムツ子警三冊五二二丁、領置同五二三丁)(証二一)

(5) 三〇日午後三時過久永方を捜索した警察職員は、久永の母サイ子から番号一一一三二二二の新品同様の一〇円紙幣五枚を押収した。(捜索差押調書三冊五〇五丁)(証二二)

(二) 一審判決がこれらの押収の新品同様の一〇円紙幣を証拠にかかげた理由は、早川方箪笥に残っていた七枚と同番号で、しかも同じく新品同様の一〇円紙幣が、兇行後同じ夜、吉岡の手から中本自動車店と寿楼に一五枚支払われ、兇行の五日後阿藤の内妻木下ムツ子が一枚を所持し、同じく六日後久永の家から五枚発見されたということは、吉岡及び被告人等の警察供述等と相まって、これらがすべて早川方から強取されたものの一部であることを窺わしめる物的情況証拠であるとみたからと思われる。換言すれば、これは、早川方現金奪取の決定的直接証拠ではないが多分、早川方箪笥抽斗内にあった番号一一三二二二二号の新品同様の一〇円紙幣の一部が吉岡から中本自動車店と寿楼(長滝キミ子)の手に渡り、一方、早川方箪笥から吉岡が取ったものを阿藤、久永が受け取るか、若くは箪笥から直接阿藤なり久永なりが取り(吉岡警六回三冊六一四丁、同五回三冊六八八丁、同四回三冊五七三丁、阿藤警二回四冊七九五丁、同三回四冊八〇三丁、同四回四冊八一二丁、久永警二回四冊八九三丁、控訴公判吉岡供述一三五三丁)、それを阿藤は内妻ムツ子に渡し、久永は自分の家においたのであろう、とみたように解される。吉岡は早川方での兇行及び現金強取後、寄道せずに同夜(二五日)午前〇時四〇分頃右中本の自動車で平生町を出発同午前一時頃寿楼に登楼し、二六日午前四時〇六分頃警察職員に逮捕されたことになっている(公判証人三好等調書一冊一〇二丁)から、この番号の新品同様の一〇円紙幣が麻郷村、平生町、柳井、徳山、三田尻方面に多量に流通していない限り、阿藤、久永が早川方で直接入手したか、さもなければ早川方若くは八海橋辺で吉岡から受け取ったのでなければ、これが阿藤、久永の手に渡り、それが阿藤の内妻ムツ子や久永の母サイ子に渡ることはあるまいとみたからのように解される。

(三) 右木下ムツ子から押収の一枚と久永方から押収の五枚は、早川方にあったものか、或は左様でなく全く他の経路から来たものか。

この点についての証拠資料として、原審からの照会に対する昭和二七年一二月二五日附日本銀行広島支店の回答書(控訴審一一四七丁)がある。これによると、一〇円日本銀行券一一一三二二二号は昭和二五年一〇月一〇日以降同二六年一月一二日まで数回に分けて印刷局工場から同銀行発券局へ納入されたという。しかし、右回答書によっては、同発券局から右番号の新しい一〇円紙幣が、右期間中の何月何日頃、同銀行の広島、下関その他いずれの支店に、およそ何枚位送られ、何時頃届いたかは判らない。

先ず、右のうち最初昭和二五年一〇月一〇日発券局へ納入された分について考えると、それが、仮りに当時熊毛郡に近い銀行支店に到着しこの方面一帯の市中銀行その他に多数払い出されたとしても、その大多数は転々流通の結果、間もなく汚れて(殊に同年末頃には)新品同様の状態ではなくなったであろう。また、同方面から遠い日本銀行本支店から払い出された分が同方面に、殊に新品同様の状態で出回ることは一層少いであろう、と思われる。

けだし、一〇円紙幣は流通性、散逸性の最も高いものであるから、同銀行発券局からその本店出納局若くは各支店に交付された右番号の新らしい一〇円紙幣の一回分は、恐らく数回、十数回に逐次分割支払され、そのうち銀行、会社、官公庁、個人等に一括して数千円、数万円交付されたものでも、その大多数は早速給与、代金、釣銭等々に細分化されて流通散逸し、恐らく数日ないし十数日中に折り畳まれ、皺が寄り、汚れて、新品同様の状態ではなくなったであろう、ただそのうち少数のものだけが新品同様の状態のまま保存されたであろう、と思われるからである。

また、印刷局から同銀行発券局に右最終の一月一二日(金曜日)に納入の分について考えると、それが早速同方面に近い同銀行支店に到着の上同月二三日ないし三〇日頃までに同方面に出回った公算は、その間の日数が短いから、むしろ少いのではなかろうか(同方面から遠い同銀行本支店からの出回りはなお更ら少いであろう)と思われる。

してみれば、一般的には、一月中旬、下旬当時同方面に右番号の紙幣が新品同様の状態で多数流通していたとはむしろいい難いのではなかろうか、それで、押収の早川方にあった七枚、中本と寿楼から押収の一五枚は、印刷局から発券局に、多分、右一月一二日に納入された分でなく、その以前に納入された分であって、それが、昭和二五年一〇月中旬から同二六年一月初旬頃までの間に、そのまだ新品同様の時期に、惣兵衛かヒサが入手し保存していたものであろう、と推測されないことはない。とすれば、押収の右同番号の新品同様の一〇円紙幣が一月二九日阿藤の内妻木下ムツ子の手に一枚、三〇日久永方に五枚あったのは、或は偶然でなく、これらは早川方箪笥内にあったものが一月二四日夜吉岡、阿藤、久永等の手を経て木下ムツ子と久永方に渡ったことの可能性がないとはいえないであろう。されば、これら押収の一〇円紙幣が被告人等の罪証として決定的なものとはいえないとしても、これを一審判決の認定事実との関係上全然証明力のないものということはできない。

しかし、更に、右押収の一〇円紙幣(特定物)についてのみならず、一般に、番号一一一三二二二号の新らしい若くは新品同様の一〇円紙幣が、一方木下ムツ子、久永若くはその家族、他方早川惣兵衛、ヒサの手に入る可能性について特段の証拠調がなされるべきであった。

すなわち、

(1) 番号一一一三二二二号の一〇円紙幣が内閣印刷局で印刷され、同局から日本銀行発券局へ納入され、同発券局から同銀行本店出納局若くは支店に、新たに、交付された各年月日、本支店名及びその都度の枚数如何。

(2) 同銀行本支店から何時頃、およそ何枚位、その新しいものが払い出され、それらが一月末頃までの間に熊毛郡及びその附近(柳井、徳山、三田尻を含む)に多数出回ったようであったか。

(3) 一月二五日早川方で発見された押収の一〇円紙幣七枚は惣兵衛若くはヒサが何時頃、何処の銀行、郵便局若くは取引先その他の人から受け取ったものであろうか。

(4) 木下ムツ子や久永及びその家族が昭和二五年一〇月ないし同二六年一月当時右番号の新品同様の一〇円紙幣を他から入手する可能性があったか。

等の点を出来るだけ調べた上この問題が検討されなければならない。

以上説示の諸点をあわせ考えると、第一審及び原審に現われた証拠によっては、被告人四名につき原審の是認にかかる第一審判決が認定した事実を肯認するに足りず、結局判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認の疑があることに帰し、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認めなければならない。よって、各上告趣意に対する判断をするまでもなく、刑訴四一一条三号、四一三条により原判決を破棄し本件を原裁判所である広島高等裁判所に差し戻すべきものとし、裁判官垂水克己の補足意見あるほか裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。

一 本件では、公訴事実、一審判決認定事実及び記録上の証拠に照らし、次の点が主要な問題となる。

(1) 被告人等は、原審相被告人吉岡晃とともに早川方での強盗殺人を共謀した上、一月二四日夜共同して早川方に侵入し惣兵衛とヒサを殺害し金円奪取ないし擬装工作をしたのであるか。

(2) 或は、被告人等は、単に強盗殺人若くは強盗(未必の強盗を含む)を吉岡とともに謀議しただけで、早川夫婦殺害、金円奪取ないし擬装工作は、吉岡がこの謀議に基いて単独で行ったのであるか。

(3) 或は、被告人等は、単に吉岡とともに窃盗の共謀若くは吉岡に対する窃盗の教唆をしただけであるのに、吉岡はこれに基いて単独で早川方強盗殺人をまで行ったのであるか。

(4) 或は、被告人等は早川方における本件強盗殺人の事実には無関係であるか。

第一、二審は、本件を、ほぼ右(1)の類型の事実のように(但し久永は殺害行為をせず擬装工作に加わったと)認めた。しかも、原判示の態様での共謀や殺害行為があったものと認めた。

これに対し、本判決は、証拠上、第一審判決が認定した事実を肯認するに足りず、結局判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認の疑があることに帰する旨判断した。これによると、本判決は、一審判決認定のような態様での強盗殺人の共謀及びその実行行為があったことについては疑があると判断したが、しかし、原判示と異る態様における強盗殺人の共謀及び実行があったことが認められるとも、認められないとも言及しないのである。また、本件は、右(2)(3)或は(4)の場合であるとも、ないとも、本判決は判断を示さないのである。だから右(1)ないし(4)の問題はなお今後に残されているこというまでもない。

二(一) 本判決は共同犯行の蓋然性と単独犯行の蓋然性といずれが多いかについても判断を示さない。しかし、私かぎりの考からいうと、そのことから、すぐさま、双方の蓋然性を五〇パーセント対五〇パーセントであって、そのいずれであるかは全く判らないともいえない。私は、被害状況から見ると、殺害及び擬装工作が二人以上の者によって行われた蓋然性の方が多くはないかとも思う。というのは、吉岡が一人で六畳納戸室に侵入し惣兵衛を長斧で八回も強打したとすると、同室に寝ていたヒサが八回もの強打が終ってから始めて眼を醒まし、吉岡に首を締められたことになるのであろうか。これは少し不自然ではないか。また、吉岡が一人で惣兵衛の頭部顔面を七回強打出血させたのなら、彼の身体や着衣にもっと多く血がついていそうなものだが、彼のジャンパーの裏一個所に少しついていた血痕のほかは、彼の他の着衣と爪の血痕はすべて血液型の検査もできないほど微量であるという(二冊二七六丁)点をも私は考えるのである。

しかし、吉岡単独犯行の蓋然性もあるのである。

(二) 記録中に不自然な供述があっても判決が措信したと認められないときは、一般には、その点からその判決の認定が経験則違反ないし事実誤認であるとはいえまい。(例えば、八海橋で共謀の際被告人等が惣兵衛を殴打する順序を定めたということや、犯行後八海橋で別れる際吉岡が柳井遊廓に行くのを阿藤等が黙認したということは、一審判決の認定しないところである。)また、記録中の諸供述が互いにくいちがっている場合には、裁判所はいずれを真実と認めるかを判断すべきであるから、一般的には、そのくいちがいの多いことから、すぐさま真実は不明であるともいい難い。なお、或事実について供述がなくても他の証拠から或事実を推認することもできる筈である(例えば、物的証拠から吉岡が当夜早川方に侵入兇行したであろうと推認する如き)。

しかし、供述の不自然と甚しいくいちがいから、これらは供述が架空なことの証左ではなかろうか、原判決の認定した事実は真実でないのではないか、との疑を持つ場合がないとはいえない。本件は結局かような場合に属するということが本判決においていわれているものと私は思う。

例えば、奪取金額についての供述のくいちがいがあって、精確な金額を認定し難くとも、裁判所は、現金の奪取されたらしい形跡があるばかりでなく吉岡の奪取費消した金額は大体判明していると見るような場合には、この金額に基き「金何円余を奪取した」と認定してよいというのが一般の場合である。けれども、本件では、吉岡の奪取費消した以外に早川方から奪取された金品はないのか、すなわち、当夜吉岡とともに早川方で強盗殺人、擬装工作をしたという被告人等が、全然金品を自ら奪取せずまた分配もされないで満足していたと見てよいか、ということが問題なのである。これに対する一つの答としては、被告人等は早川所有金円を入手したが費消して終ったのであろう、そして被告人等は早川方被害や吉岡の逮捕を新聞や町の噂で知ってから二、三日経て警察に呼び出されたので、その間に考えて金品奪取についても真実を秘してことさら供述を二、三にするのであろうとの推測が出るかも知れない。それにしても、一審判決認定どおりの事実が果して真実であろうかとの疑は、一、二審公判にあらわれた証拠の書面判断ではなお残るのである。

三 記録だけで審査した被害結果によって、私は数人犯行の蓋然性の方がどちらかといえば多くはないかとも思うが吉岡単独犯行の蓋然性もあると考え、また、被告人等の供述調書のくいちがいのうちにも、被告人等が吉岡と二四日夜八海橋辺に集まって通謀の上早川方に行きそこで兇行が行われたことについては、被告人等が(めいめい自分に不利でないように供述しつつも)かなり一致して自供しているように、そこに或一貫した線が出ているようにも考えられると思う。(或は一、二審での当事者双方の立証並びに証拠調、殊に早期捜査の不充分の結果かも知れないが)しかし、「爪、着衣の血痕検査書」内容の杜撰、その他の物的証拠の乏しさ等、本文説示の諸点に鑑み、なお、私は一審判決認定事実には誤認があることの疑を持つのである。いずれの点に疑を持つかはここに触れない。

裁判官本村善太郎は退官のため評議に関与しない。

(裁判長裁判官 垂水克己 裁判官 島 保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三)

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